おもちゃ屋店主のacoです
精神保健福祉士×保育士の店主が綴る 仕事と子育ての話
その他の事

悔しい羨ましい妬ましい

こんにちは

にじのおもちゃ屋Regenbogeon店主のacoです

タイトルを書いてみて、なんともダークな言葉が並んだな…と思っているところですが笑

最近の心の変化ですね。

「悔しい、羨ましい、妬ましい」をちゃんと感じる、ということに向き合っています。

それはそれは小さい頃から、この「悔しい、羨ましい、妬ましい」をずーっと感じないように、色々言い訳して過ごしてきました。

だって、苦しいじゃないですか。

「悔しい」も「羨ましい」も「妬ましい」も、苦しいですよね。

本気でそれを感じてしまうと、心の奥から何かが壊れるような気がしていました。

自分の価値が否定されるような気もするし、今まで自分がしてきた努力や思いが無駄だったんじゃないかって思えたり。

だから、苦しいから、あんまり向き合わないようにして、そーっと蓋をして、笑って過ごしてきたんですよね。

「悔しい」は、何かに負けたり、誰かや何かと比べて劣っていたり、何かを逃したり、自分の無力を感じることだし、

「羨ましい」は、自分が持っていない何かを自覚せざるを得ないし、

「妬ましい」は、その「悔しさ」「羨ましさ」が募り募って、相手の事すら嫌いになりそうな状態だし。

うん、言葉にしていくだけで、人間のドロドロしたことがたくさん出てきそう笑

怖いし、苦しいですね。

それが最近、どうしてこの「悔しい、羨ましい、妬ましい」に向き合おうと思うようになったのか。

それは、その「悔しい、羨ましい、妬ましい」の奥底に、本当に自分がほしいと思っていることが眠っていると気付いたから。

おもちゃ屋さんを始めて、インスタグラムを始めて、たくさんの人の投稿を見ているうちに、疲れてしまって、インスタグラム見るのも嫌だなーと思うことが一時期増えました。

インスタグラムの中には、日々楽しそうな写真が載せられていて…

美味しそうなご飯を食べていることだったり、丁寧な暮らしをしていることだったり、こどもに対して愛情いっぱいに優しい言葉をかけていることだったり、楽しそうな場所に行っている写真だったり、親しそうなお友達と楽しく過ごせていることだったり、その人のビジネスによって誰かが幸せになっていることだったり、似たような思いをもっているのに自分とは比較にならないくらい上手にセンス良く情報を伝えている事だったり…

とにかく、今の自分の現実と、インスタグラムの中のキラキラに差がありすぎて、自分の無力感やごちゃごちゃした現実に、打ちのめされるような感覚になることがよくありました。

もしかしたら、「acoさんもそのキラキラ、存分にまき散らかしてます」と思われるかもしれませんが、インスタグラムに載せているのって、本当に生活の綺麗な一部分なんですよね。

だって本当に現実のごちゃごちゃと言ったら…!!

だからこそ、先ほどあげたような、インスタグラムに載せられているキラキラは、その人の生活や仕事の一部であって、その人なりに努力したり、苦しかったり、ごちゃごちゃした現実を過ごしているんだと、頭ではわかる。

それに、自分にも気の置けない友達がいて、仕事の中でたくさんの人に支えてもらったり、かけがえのない出会いに心から幸せだなぁと思う瞬間もいっぱいある。

だから、それでいいじゃないか、と思おうとするのに、人のキラキラをみるとなんだかモヤモヤする…。

そして、そのモヤモヤが苦しくて、「うまくいっているのは○○に恵まれているからだ」とか「その考えは、恵まれている人だから思えるんだ」とか、キラキラ輝いている人をうがった見方で見て、悪いところを探して自分を正当化したり。

こんなに心の内を書いていいのでしょうか笑

ここからが本題なので、どうかここで読むのをとめないでくださいね笑

でもね。

仕事をしていく上で、どうしてもSNSでの発信はしなくちゃいけない。頑張っていきたいって自分で決めていたことだから、一回立ち止まって、どうしてインスタグラムこんなにモヤモヤするんだろうって考えたんです。

それで、そのモヤモヤの中身をちゃんと見たら、そこに「悔しい羨ましい妬ましい」が隠れていて。

そっか、私は「悔しい、羨ましい、妬ましい」と思ってるんだ、とうすうす気付いていた事実を受け止めた後、どうしてそう感じるんだろう?と深堀したら…

「私も自分の持っていることで、たくさんの人に喜んでもらいたい」

「私も思ったことを、自信を持って言いたい」

「私ももっとたくさんの人と繋がりたい」

「私も、誰かに選ばれる人になりたい」

そんな奥底の思いが隠れていました。

私の「~~したい」「~~になりたい」を叶えている“誰か”がとても羨ましかったんです。

そして、その一番根っこにある「私は~~したい」「私は~~になりたい」という思いに、ちゃんと向き合ったら、他の誰かと比べる必要がなくなりました。

自分がなりたい自分、自分がこうありたいと思える自分になるためには、一つずつやっていくしかないって、気付きでもありました。

「悔しい、羨ましい、妬ましい」は、誰かや何かと比べたりして苦しいけど、その根っこにはシンプルに「自分はこうありたい」という祈りのような希望がある。

1番の発端は、ちゃんと“希望”だったんです。

もしあなたが「悔しい、羨ましい、妬ましい」と感じることを、ダメな行為だ、持ってはいけない感情だと思っていたら、そんなことないよって伝えたいなぁと思います。

だって、その思いの根っこは、あなたの“希望”だから。

【希望】1,あることの現実をのぞみ願うこと。2,将来に対する期待。コトバンクより

まぁ、そうはいっても、日々生活をしている中では「悔しい、羨ましい」と思うことはやっぱりあります。(「妬ましい」はなくなったかな笑)

昨日も「えぇーそれってさぁ…」と、ちょっと悔しい出来事があったのです。

もちろん、ちゃんと考えれば、ただの自分の実力不足。仕方のないことなんです。

でも、めっちゃくちゃ羨ましいと思いました笑

その感情自体は、もう否定しません。それはそれで、私の大切な感情だし、そういう感情って人間っぽくていいなって。

だから、一旦「悔しい~!」と思った後に、そこから離れて、「じゃあ次、自分は何をして希望を叶えていこう」って、切り替えたところです。

「悔しい」とか「羨ましい」って、切り替えができるまでは、やっぱり苦しいし、なんでなの~!と言いたくもなるのですが、そういう雑味(悔しい羨ましい妬ましい、みたいな)って、いつかもっと熟成されたら私の深みを作ってくれるんじゃない?とも思って、大切に、でも固執せずに共生していこうと思っています。

その雑味で誰かを必要以上に傷つけたり、自分本位になり過ぎたりしないように、ちゃんと根っこの“希望”の存在を、忘れないであげながら。

今まで、ずっと苦しくて「悔しい」も「羨ましい」も「妬ましい」も、感じないようにして過ごしてきて、「私は私なんだから、大丈夫」って無理やり思おうとしてきたけど、「悔しい」も「羨ましい」も「妬ましい」も、認めてしまった方がずっとずっと楽でした。

長い時間過ごしてきて、すぐにはその「悔しい、羨ましい、妬ましい」に向き合えない人もいると思います。

でも、その根っこには、ちゃんとあなたの“希望”が隠れていて、それは誰かに否定されたり、ジャッジされるようなものでは、決してないということは、知ってもらえたらいいなと思います。

この「悔しい、羨ましい、妬ましい」って、実は子育て中にも必ず出てくる悩みなんじゃないかなとも思っています。

自分の子より他の子が早くできたり、上手にできたりすること、頭では「比べなくていい」ってわかっているのにモヤモヤすることって、誰にでもあると思うんです。

私も、モヤモヤすることありました。

…この話は、また長くなりそうなので次回書くことにします笑

良かったら、また次回も読んでくださいね